ご祭神・ご由緒

ご祭神
菅原神社の御三家

菅原道真公 すがわらのみちざねこう

天満天神、学問の神、文化の神

天満天神、学問の神、文化の神

幼時から神童と称され、宇多天皇の厚いご信任のもと、遣唐使を廃止するなど政治の中心でも活躍し、899年(昌泰2年)には右大臣に任命されます。しかし、左大臣の藤原時平らによって大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなります。逆境の中でも国家のご安泰と天皇様のご平安を念じられた道真公は、神の御位に昇られました。学問に秀でていたことから学問の神、文化の神として長く人々の信仰を集めています。

天穂日命 あめのほひのみこと

農業、養蚕、木綿の神様

天照大神の第2子。出雲一族の記録「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」には、母・天照大神から「地上の統治者、大国主命を説得して国を平定させたと記されています。しかし、「日本書紀」には、大国主命に心酔して、そばに住み着き3年間連絡を怠ったという記述も残っています。豪族の祖神は、その地の国土開発や産業振興の守護神として信仰され、農業、養蚕、木綿の神として祀られています。

野見宿祢 のみのすくね

相撲の神様

垂仁天皇の時代に当麻毛蹶(たいまのけはや)という強力で鳴らした者がいました。天皇が出雲の国の野見宿袮という勇者を探し、勝負させたところ野見宿袮が勝利。以来、相撲の祖と呼ばれるようになりました。
野見宿袮は、殉死する慣習に異議を唱え、殉死に代えて埴輪を副葬することを進言します。これにより、天皇から土師部(はじべ=陵墓の造営や埴輪の制作に従事する人々)を統率する土師氏の姓が与えられました。菅原道真公も土師氏に連なる方です。

ご由緒
堺の町の天神様

997年(長徳3年)創建

今から千年以上前、節摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。これは、菅原道真公が配流された大宰府の地で自ら作られ、海へ放された七天神のうちのひとつと伝えられています。
ご神体はしばらく付近の住人によって、大切に祀られていましたが、摂津の国北の庄の氏神であった、天台宗威徳山天神常楽寺(てんだいしゅういとくざんてんじんじょうらくじ)の僧徒がご神体を同寺に遷し、997年(長徳3年)に天神社を創建したことが菅原神社の始まりです。この時に常楽寺でお祀りしていた春日明神と山王権現とともに祀られました。
道真公が大宰府で亡くなられてから90年以上後のことで、都では藤原氏一族の摂関政治が続き、中でも3人の娘を天皇に嫁がせて政治の実権を握る藤原道長の全盛時代が訪れようとしていました。
(注)今の大阪府と兵庫県にあたる摂津の国は、古から大和、山城、河内、和泉とともに、畿内5ヶ国のひとつです。堺の名前は、摂津、河内、和泉の境になっていることに由来すると言われています。中世初期には、北の庄(摂津)、南の庄(和泉)のふたつに分けられていました。

中世から近世へ

中世から近世へ

時代は、応仁の乱から戦国時代へ。貴族社会から武士社会へ国の仕組みが大きく変化する中で、天神社は厚い道真公信仰に支えられていました。
しかし、1532年(天文元年)12月14日、夜半に北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる4,000軒を焼きつくしました。

それから約40年、1574年(天正2年)当時の神社の配置図を見ると、本社、拝殿、大梵天堂、金殿、観音堂、薬師堂、護摩堂、御影道、食堂、経堂、連歌所、塔、鐘楼、仁王門および南北の門がえがかれており、再建後、敷地と規模を拡大させていたことがうかがえます。
また、本社、大梵天堂、観音堂などの名称から、神道と仏教の建物が共存していたことが示されています。
ここに記されている連歌所とは、ご祭神に奉納する法楽連歌を詠む建物です。中世から近世にかけて、学問、詩歌、芸能の神、道真公にちなんで、各地の天満宮や天神社では連歌の会が盛んに開かれており、菅原神社でも法楽連歌の会が行われていました。

平穏な時代は終わり、1614年(慶長19年)豊臣方と徳川方との間に大阪冬の陣、翌年には夏の陣が勃発します。その直前、豊臣方の武将、大野道犬(おおのどうけん)は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、菅原神社はまたも焼失してしまいます。
しかし、承応元年の菅神750年祭を機に再建に努め、翌年、新殿が完成、ご神体をお遷ししました。

「元禄二年堺大絵図」には堺の町全体が詳細に描かれています。当時は「北の天神、南の開口(あぐち)」と呼ばれ、堺の町を東西に貫く大小路通の北を天神社が、南を開口神社がそれぞれ氏神として祀られていました。
ところで、時の為政者と菅原神社の関係について、豊臣秀吉は、免税などを保障する二百二十石の御朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられています。

天神社から菅原神社へ

天神社から菅原神社へ

明治維新は、国政をはじめ、様々な分野に大きな変化をもたらしました。そのひとつが神道と仏教を分離する「神仏分離」制作でした。徳川幕府が行ってきた、神仏まざり合った宗教制度を一新して、新政府による神道国家を確立するために、神道と仏教を明確に分離する方針を示しました。
これにより1872年(明治5年)、天神社は大梵天社など仏教関係を廃絶。明治という大きな時代への転機を機に、天神社を菅原神社と名称を改めて、新しい歴史を紡ぐことになりました。

そして近隣の神社を整備し、管理体制を整えるため、1907年(明治40年)は、宿屋町の薬祖神社、翌年には、宿屋町の事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を境内に遷してお祀りし、戎之町の事代主神社を菅原神社の飛地境内地である戎島の恵比寿神社に遷してお祀りしました。